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―母子救急の歴史―

鎌倉殿の御産所と僧医―母子救急の歴史―


 NHK大河ドラマで『鎌倉殿の13人』が放送されている。急に幕府ができた海岸沿いの集落には大きな変化が起こった。政治の中心が四百年の栄華を誇った京都から鎌倉に移る。一方で政治の中心が移ると全ての経済・文化・医療が移る訳でもなく、西の勢力はまだまだ続く。官医とされる和気・丹波両派閥は京都に残ろうとする。そんななかで、1219年に藤原頼経が四代将軍予定者として、鎌倉に迎えられて下るときに丹波良基(よしもと)が随行した。丹波は、権女医博士、権侍医であり、施薬院(今の二次救急病院)使に任命された。
 『吾妻鑑』による症例報告:1229年二代執権の北条泰時息女の出産に際して分娩停止から起こった脳乱状態(おそらく子癇発作と意識障害)胎児死亡。担当医師は丹波良基、験者が二人、陰陽師が四人任命された。
一方大きく華開く仏教文化。浄土宗高徳院の大仏は、1252年鎌倉の入り口に、西から来る幾多の旅人を見下ろすように、金箔で覆われ完成。親鸞・日蓮をはじめとする日本独自の仏教思想も拡がる。僧医が地域の医療面でも活躍。ここに施薬院を医療の中心に据えて僧医が地域医療分娩医療を支える医療体制が成り立つ。
 将軍家の出産では、有力な家臣の邸を御産所に指定した。新築・お祝い・謝礼等の大きな出費とともに将軍家との特別な関係が約束される。政子の頼家出産では比企家を選任。実朝出産は北条朝時家(政子の実家)を選任。従って北条家との特別な関係が構築された。
 藤原家大宮殿の、頼嗣出産時には一旦決められた御産所に入ったあと、二次救急指定の施薬院の丹波医師のもとへ転医搬送後の出産となった。その後、蒙古襲来・鎌倉幕府の崩壊・建武の新政を経て南北朝の動乱まで、戦時であり、ここに金創(刀・槍による創)治療に金創医が始まり分娩時裂創等の処置に流用、そして戦時と同様と理解される分娩時の精神興奮状態治療薬として金創薬が利用されて女科医出現の端緒ともなった。北条政子をテレビで見かけてふと思う。ご苦労様。
参考:杉立義一 お産の歴史